「穏やかな心」とは?!

mixiで参加している、みことばのコミュニティ。近頃ずっと見ていなかったのですが、
今日の新着は「箴言14章30節」と書いてあったので、久し振りに開いてみました。


「穏やかな心は、からだの命。激しい心は骨をむしばむ。」

カアチャンの聖書では、「穏やかな心は肉体を生かし、激情は心を腐らせる。」と訳されています。
あのお馬鹿亭主に聞かせてやりたいわ!!!と、思ったカアチャンもまた…
決して穏やかな心では過ごしていないであろうという事。おそらくそうだ…


今日は幼稚園が早帰りであまり時間がないので、ゆっくり読んでいる時間はないんだけど、
せっかくなので、そのみことばの前後にも目を通してみることにしました。


「愚か者の前から立ち去るがよい。彼に知識ある唇を認めることはできない。」
聞くのもバカらしくなるような訳の分からないような事を言い、そこに居ない人間の事を聞くに堪えないくらいになじり、自分の過ちは決して認めず全てを人のせいにする…もういい加減、ガマンも限界だし…出来る事なら立ち去りたいぜ!っていうか、頼むから立ち去ってくれ…カアチャンの前から消えてくれ!と…思わずにはいられない自分がいる。 だが、しかし…↓


「思慮深い人は自分の知恵によって道を見分ける。愚か者の無知は欺く。
 無知な者は不遜で互いをなじる。正しい人は互いに受け入れる。」
ここでカアチャンは、思慮深く自分の知恵で道を見分けなければならない。「有り得んやろ〜。おかしいやろ〜。心が狭すぎ。周りの迷惑や子供達の生活よりアンタの感情の方が大事なん?器が小さいやろ〜。無責任すぎるでしょ〜。」と、否定的な感情の方は次々と沸いてきます。ここでカアチャンは相手と同じ不遜ではなく、互いにはムリ(相手は折れる事を知らない)でも、自分は正しい人になり「受け入れる」という道を選択するという見分け方もあるのである…。


「罪を耕す者は必ず迷う。善を耕す人は慈しみとまことを得る。」
必ず迷うというのなら、彼はこれから迷い続けるだろう。ここでカアチャンは迷う者のために、そして自分自身の為に善を耕す人となるべきなのであろうか…ということ。


「どのような苦労にも利益がある。口先だけの言葉は欠乏をもたらす。」
ここで受け入れ正しい人になることは、かなりの苦労を要しますが、そこには利益があるのです。口先だけではなく言葉だけでなく実行あるのみ。受け入れて心を尽くすべきなのです。


「知恵ある人の冠はその富。愚か者の冠はその無知。」
どうせ被るなら、カアチャンは無知の冠ではなく、知恵ある人の冠を望みます。


「忍耐によって英知は加わる。短気な者はますます無知になる。」
短気を起こして無知にならず、気長に戦い(ってのもおかしな表現だけれど…)忍耐することにより、カアチャンには英知が加わるのです。


激情で骨を腐らせることのないように、肉体を生かすため穏やかな心をもって解決へ向け日々過ごすべきなのでしょう。これはこれは相当な労苦。至難の業…祈り続けるしかありませんな…